百万石支配の拠点として大和大納言豊臣秀長の居城。奈良「郡山城」

大和郡山のシンボルとして親しまれる「郡山城」。かつての都、奈良に隣接し、戦国時代、軍事・政治的に重要な土地であった大和国郡山。郡山城は、天正8年(1580)に筒井順慶により築城。天正13年(1585)天下人 豊臣秀吉の 実弟にして名参謀といわれた豊臣秀長が大和・紀伊・和泉100万石の城主として入城し、100万石の居城に相応しい城へと藤堂高虎とともに大改築を行ったのである。

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紀州根来寺の大門を城門として移築、もともと大和盆地は石材が乏しく、天守台の石垣には平城京羅城門の礎石や、社寺の石仏・墓石までもがかき集められ豪壮な石垣が築かれたのである。今も天守台の後ろで頭を逆さまに積み込まれた石造地蔵菩薩立像もそのひとつで、ほどなくして毎夜すすり泣く声がするとの噂が広まり、大和大地震により天守閣は倒壊したといわれている。天守台北面の石垣の「さかさ地蔵」伝説である。実際は天守台へ上がると思いのほか小さなスペースで、天守閣はそもそもなかったとされている。

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この本丸跡から跡から東側は、柳沢文庫のある毘沙門郭、レトロ建築の市民会館がある法印郭が遊歩道で結ばれている。江戸時代には、水野、松平、本多と城主が替わり、享保9年(1724)以降は柳沢藩十五万石の城下町として栄え、明治時代を迎えるのである。松平忠明が伏見城の遺構を家康から与えられて再建した城の大手にある追手門(別名 梅林門)追手門守護のために設けられた追手向櫓、多聞櫓、東隅櫓が復元されていて城跡内は結構梅が咲いていて良い香りが風に乗って運ばれてきていた。

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十万石大名として真田の家名を残す小さな城下町信州「松代城」

永禄三年(1560)甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信に備えて謀将山本勘助に命じて縄張りさせた平城で当時は「海津城」と呼ばれていました。 千曲川のほとりという自然の地形を巧みに取り入れ、天下の名城と言われており、元和8年(1622)以降、江戸時代には代々真田十万石松代領主の居城となり松代城と改称。明治4年のは廃藩により取り壊されていたが、昭和56年に国の史跡に指定され、平成16年に土塁・堀などの整備・復元されたのです。

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太鼓門は本丸南側の大手(正面)に位置する門で本丸に存在した3ヵ所の櫓門の中で最大規模の門です。太鼓門の前には内堀にかかる太鼓門前橋があります。高さは11.8mのこの太鼓門(櫓門)と「橋詰門」と呼ばれる高麗門でいわゆる枡形門を構成しています。桜の名所でもあり、4月中旬ごろ見頃を向かえます。

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内堀より中は総石垣で囲われ千曲川の氾濫に備えられていたと考えまれます。本丸北側の搦手に位置する門が北不明門です。18世紀前半までは千曲川の河川敷に位置していたことから「水ノ手御門」とも呼ばれていました。

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円山川から立ち上がる霧に覆われ幻想的に浮かび上がる播州朝来「竹田城」

兵庫県朝来市にある国指定史跡の日本百名城の一つである山城が「竹田城」。別名、虎がふせたようなシルエットから、「虎臥城」と呼ばれ、最近は秋から冬にかけてよく晴れた早朝にのみ見ることができる、眼下の円山川から発生する霧の包まれ、まるで雲海に浮かぶような姿から「天空の城」「日本のマチュピチュ」と称され、つとに知られるようになった山城です。

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但馬国の要衡に位置する標高358.7Mの古城山の山頂に築かれた竹田城跡は、嘉吉3年(1443)に但馬の守護大名・山名宗全が基礎を築いたとされ、以後太田垣氏が7代にわたって城主となったが、秀吉の但馬征伐で天正8年(1580)に落城し、その後、最後の城主・赤松広秀により南北400M、東西100Mに及ぶ豪壮な石積みの城郭が整備されたと言われる。1600年関ヶ原の合戦後自刃した後も城は取り壊されることもなく、朽ちるにまかせたおかげで、石垣は今も戦国時代のままであり、安土城や姫路城の石垣を作った近江穴太衆たちの手による、自然石を巧みに配置した穴太積みの石垣は、400年を経た今でも日本屈指の石垣遺構として当時の威容を誇っています。

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城跡に入ると、野面積みというその石積みの無骨さに圧巻される。最高所の天守台(落下事故の為侵入禁止)をほぼ中心に置く石垣城郭となり、本丸以下南方には、南二の丸、南千畳が、北方には、二の丸、三の丸、北千畳を築き、天守台の北西部には、花屋敷と称する曲輪がある。天守台の石垣に階段はなく、本丸の建物内部から通じていたようです。

4月には満開のソメイヨシノが華やかさを添え、往時の威容が偲ばれる一層幻想的な景色に出会えます。

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但馬吉野と言われる「立雲峡」は、竹田城から円山川を挟んで東側に海抜756Mの朝来山中腹にあり、正面に竹田城の巨大な石垣が一望できる絶好のビューポイントで、観光パンフレットに載っている雲海の写真は、たいていここからの撮影である。

石垣と天守のない全てが土塁で築かれた天下普請の平城。越後上越「高田城」

新潟県上越市、高田平野の中程にある小高い菩提ヶ原に、徳川家康の六男・松平忠輝の居城として、慶長19年(1614)徳川家康の命によって天下普請と呼ばれる徳川家の国家事業としてわずか4ヶ月間で建てられたのが「高田城」です。築城期間があまりにも短かったことから天守閣と石垣が造られなかった珍しい平城で、近隣の前田家ににらみを利かせ、北陸と関東を結ぶ交通の要衡に徳川一門である越後最大の雄藩にふさわしい三重櫓がシンボルです。築城の総監督・忠輝の義父、伊達正宗の下、奥羽、甲信越の外様大名13氏に命じて造らせました。

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城は周囲を流れる4つの河川を利用して蛇行部を外堀にするなど四方に荘大な水堀を巡らし、防備を強化していて、低湿地に築かれ、攻めづらくしています。低湿地の軟弱な地盤のために石垣が合いませんでしたが、土塁の迫力はこの城の一番の魅力です。

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春は約4000本の桜が咲く、 日本三大夜桜で有名であり、夏は外堀約19haを埋め尽くす東洋一の規模と美しさを誇る蓮の名所となる。秋の紅葉も美しい高田城です。

山頂に悠然と構える越前平定の要となった現存最古の天守。越前坂井「丸岡城」

穏やかな坂井の町を見下ろし、山頂に悠然と構える武骨な「丸岡城」。越前平定の要であった現存最古の天守は、かつて繰り返された戦の面影を今に伝える。織田信長家臣柴田勝家の甥の勝豊によって「まるこの丘」と呼ばれる山に築城されたのが丸岡城。標高17mの小高い山頂に建ち、「霞ヶ城」とも呼ばれる。一層に大きな入母屋風を有する平山城で、石段の登り口からそのまま天守に入るという構造もこの城特有のもの。高さ12,6m、2層3階の望楼型天守は、手斧の跡が各所に見られ、武骨な印象を抱かせる板張りの建物である。

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太平の世には程遠い時代の天守であったため、鉄砲狭間や石落としといった戦への備えが各所に施され、約60°の急角度で造られた階段は訪問客を圧倒する。ロープを伝って慎重に上り下りしなければならない。天守の足場を支える石垣は最も古い工法とされる野面積み。

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また屋根瓦は全国の天守の中でもここだけの石瓦葺き。足羽山の笏谷石による瓦屋根は、この城の価値を高める希有な要素です。 最上階には回廊があり、西は遠く東尋坊のある三国まで、南は福井市内が見渡せます。

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初代丸岡藩主本多成重(幼名仙千代)の父、徳川家康譜代の家臣で戦では傷を負っても鬼気迫る戦いぶりを見せ、「鬼作左」の異名をとった本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てた手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という手紙はつとに有名です。

清水湧く北陸の小京都・越前大野の天空の城。「越前大野城」

雲海に浮かぶ日本三大天空の城として一躍有名になった「越前大野城」は、織田信長の家臣・金森長近により天正4年(1576)頃から約4年をかけて築いた城です。(後は竹田城と備中松山城) 。「北陸の小京都」と呼ばれる越前大野は、碁盤目状の美しい城下町でいたるところに湧水のせせらぎが聞こえる名水の町でもあります。

小高い亀山の山頂を削って平らにし、本丸とし天守を構え、麓に二の丸、三の丸があり、内堀、外堀を巡らし城を守っています。天守閣は昭和43年(1968)に再建されたものですが石垣は当時のままで、自然石を積み上げた野面積みという工法で造られていて大変堅固にできており、貴重な史跡となっている。

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お城への登り口は3ヵ所あり、急で長い階段が続く西登り口からだと徒歩約10分ですが、景観もよく一番登りやすい南登り口からだと徒歩約20分、整備されたスロープが緩やかなカーブを描くように続きます。緑の木々に包まれた心地良い道で、石段を上って城門を潜ると、ぐっと本丸らしい雰囲気になります。途中には初代藩主「金森長近」像や幕末の大野藩主「土井利忠」像が立っていて、遠くに白山を眺めながらの登城は、昔にタイムスリップしたような感覚にさせてくれます。写真の右端の石垣の窪みは「武者登り」といい、石垣と一体になったような、高さのある石段が設けられています。

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