甲州流軍学者の知恵を絞って造り上げた忠臣蔵のふるさと。播州「赤穂城」

忠臣蔵で有名な赤穂浪士たちの本拠地として名高い「赤穂城」は、大阪の陣の後、名実ともに徳川幕府の天下が決定した後に築かれた城です。正保2年に浅野長直が常陸国笠間から石高53500石で入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶案元年(1648)から13年の歳月をかけて寛文元年(1661)に完成した城郭の綱張りは、近藤正純、山鹿素行の指導のもと甲州流軍学によるもので、本丸と二の丸は輪郭式、二の丸と三の丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城で、赤穂のシンボルであり、「日本100名城」に選ばれているのもうなずける。天守台はあるが肝心の建物「天守」は一度も築かれませんでした。

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東に千種川、南は瀬戸内海に面しており海を強く意識した城で、清水門の南にある船入は船が出入りできるようになっていたのである。時代的にも戦を意識して築城されたものでないのでのどかな印象が漂うのも特徴である。城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2847m、面積は63711㎡に及んでいる。

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赤穂城の表玄関が大手門。門、隅櫓、土塀は昭和30年(1955)に復元したものであるが赤穂のシンボルとして旅の記念写真のベストスポットとして愛されているようである。

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築城の名手・藤堂高虎のもと天下普請で築かれた丹波「篠山城」

慶長13年(1608)徳川家康は豊臣氏の居城である大阪城と山陰、山陽路の連絡を断ち、西国大名に対する抑えとするため、常陸国の笠間城から実子松平康重を八上城に移し、ただちに新城の築城を命じて建てられたのが今もなお町のシンボルである続ける「丹波篠山城」です。

慶長14年(1609)、西国15カ国・20の諸大名に助役を命じ、一日約8万人を動員してわずか6ヶ月で「笹山」という丘陵に城を完成させ、それを中心に拡がった城下町が篠山である。古来京都への交通の要として栄えてきた歴史があり、町並みや祭りなどに京文化の影響を色濃く残しており、そんな城下町篠山の街並みは「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれています。

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日本百名城の「篠山城跡」は、別名桐ヶ城と呼ぶこの城は築城家の第一人者、藤堂高虎の縄張りで行われた平山城で方形約400Mの小規模なものであるものの、二の丸には大小書院や御殿、築山を持つ庭園を配し、要所には2重の枡形や2重、3重の櫓を配した荘厳かつ堅固なもので、回字型の構造から輪郭式縄張という城郭遺構はほぼ昔のままの姿をとどまている。

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北東の三の丸入口にあたる東門から内堀、内堀に面した二重の枡形を抜けるとすぐに篠山城のハイライトである、2000年に復元された京都二条城の御殿に匹敵する大書院に至る。

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南面中央の少し低い位置にある埋門で、字のごとく石垣に埋まるように造られていて、扉は小さな木戸になっている。非常時には土や石で埋めて遮断することができる特殊な造りになっている。

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またこの門を出た南角には普請総奉行の池田三左衛門輝政の三左衛門の刻印が刻まれた石垣も発見できるのである。

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百万石支配の拠点として大和大納言豊臣秀長の居城。奈良「郡山城」

大和郡山のシンボルとして親しまれる「郡山城」。かつての都、奈良に隣接し、戦国時代、軍事・政治的に重要な土地であった大和国郡山。郡山城は、天正8年(1580)に筒井順慶により築城。天正13年(1585)天下人 豊臣秀吉の 実弟にして名参謀といわれた豊臣秀長が大和・紀伊・和泉100万石の城主として入城し、100万石の居城に相応しい城へと藤堂高虎とともに大改築を行ったのである。

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紀州根来寺の大門を城門として移築、もともと大和盆地は石材が乏しく、天守台の石垣には平城京羅城門の礎石や、社寺の石仏・墓石までもがかき集められ豪壮な石垣が築かれたのである。今も天守台の後ろで頭を逆さまに積み込まれた石造地蔵菩薩立像もそのひとつで、ほどなくして毎夜すすり泣く声がするとの噂が広まり、大和大地震により天守閣は倒壊したといわれている。天守台北面の石垣の「さかさ地蔵」伝説である。実際は天守台へ上がると思いのほか小さなスペースで、天守閣はそもそもなかったとされている。

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この本丸跡から跡から東側は、柳沢文庫のある毘沙門郭、レトロ建築の市民会館がある法印郭が遊歩道で結ばれている。江戸時代には、水野、松平、本多と城主が替わり、享保9年(1724)以降は柳沢藩十五万石の城下町として栄え、明治時代を迎えるのである。松平忠明が伏見城の遺構を家康から与えられて再建した城の大手にある追手門(別名 梅林門)追手門守護のために設けられた追手向櫓、多聞櫓、東隅櫓が復元されていて城跡内は結構梅が咲いていて良い香りが風に乗って運ばれてきていた。

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円山川から立ち上がる霧に覆われ幻想的に浮かび上がる播州朝来「竹田城」

兵庫県朝来市にある国指定史跡の日本百名城の一つである山城が「竹田城」。別名、虎がふせたようなシルエットから、「虎臥城」と呼ばれ、最近は秋から冬にかけてよく晴れた早朝にのみ見ることができる、眼下の円山川から発生する霧の包まれ、まるで雲海に浮かぶような姿から「天空の城」「日本のマチュピチュ」と称され、つとに知られるようになった山城です。

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但馬国の要衡に位置する標高358.7Mの古城山の山頂に築かれた竹田城跡は、嘉吉3年(1443)に但馬の守護大名・山名宗全が基礎を築いたとされ、以後太田垣氏が7代にわたって城主となったが、秀吉の但馬征伐で天正8年(1580)に落城し、その後、最後の城主・赤松広秀により南北400M、東西100Mに及ぶ豪壮な石積みの城郭が整備されたと言われる。1600年関ヶ原の合戦後自刃した後も城は取り壊されることもなく、朽ちるにまかせたおかげで、石垣は今も戦国時代のままであり、安土城や姫路城の石垣を作った近江穴太衆たちの手による、自然石を巧みに配置した穴太積みの石垣は、400年を経た今でも日本屈指の石垣遺構として当時の威容を誇っています。

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城跡に入ると、野面積みというその石積みの無骨さに圧巻される。最高所の天守台(落下事故の為侵入禁止)をほぼ中心に置く石垣城郭となり、本丸以下南方には、南二の丸、南千畳が、北方には、二の丸、三の丸、北千畳を築き、天守台の北西部には、花屋敷と称する曲輪がある。天守台の石垣に階段はなく、本丸の建物内部から通じていたようです。

4月には満開のソメイヨシノが華やかさを添え、往時の威容が偲ばれる一層幻想的な景色に出会えます。

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但馬吉野と言われる「立雲峡」は、竹田城から円山川を挟んで東側に海抜756Mの朝来山中腹にあり、正面に竹田城の巨大な石垣が一望できる絶好のビューポイントで、観光パンフレットに載っている雲海の写真は、たいていここからの撮影である。