四百有余年、六文銭に込めた真田の熱き魂が残る!信州上田「上田城」

上田城は天正11年(1583)、真田昌幸によって、徳川家康の支配のもと、上杉謙信への備えてとして、南に千曲川が流れ、緩やかで深みのある天然の堀となる「尼ヶ淵」に築城された上田盆地の中央に位置する平城です。そのため「尼ヶ淵城」とも呼ばれていました。第一次、二次上田合戦で徳川の大軍を撃退した実践経験のある城は全国にも他に例はありません。

上田城の堀は素掘りで掘りあげた土をその内側へ堤状に積み上げて土塁としています。

関ヶ原の合戦後破却され、その後小諸から入封した仙石忠政によって城は再興され、近世後半には松平氏の居城となりました。

昭和24年に南櫓と北櫓を移築復元し、平成6年に城門が復元され、かつての東虎口櫓門の姿が甦りました。虎口とは、城の出入口のこと。

その門の石垣の中に「真田石」があります。真田信之が松代移封の際に父に形見として持ち去ろうとしたが、不動であったちされる伝説の直径3mの大石です。

城内には現在、真田氏ほか歴代の上田城主を祀る「真田神社」があり、「落ちない城」にあやかり受験生に人気です。

その裏手には「真田井戸」があります。本丸唯一の井戸で、直径m、深さは16.5mに達します。この井戸には抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館に通じていたという伝説があります。

尼ヶ淵の河岸段丘上に築かれた本丸隅櫓の外壁は下見板とし、その上から軒の部分までを塗籠としています。昔の尼ヶ淵はいまは駐車場と芝生公園です。

 

 

 

戦国の世を見つめた難攻不落の穴城。信州小諸「小諸城址(懐古園)」

小諸といえば“小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ”の小諸城址(懐古園)です。北に浅間山を控える城下町・小諸の地には浅間山の火山灰地が浸食された深い谷が幾筋も走り、小諸駅の南東に位置する小諸城は、城としてはめずらしく城下町よりも低い場所に立つ穴城です。背後の谷筋を空堀に見立てて城後方の守りの要とし、仙石秀久、2代忠政の代に完成をみた後ろ堅固の城なのです。

城内は枡形を多用し、要所要所には橋や櫓、門を構えるなど、敵の侵入に備えた造りでした。ほとんどの建物は廃藩の際に壊され、鹿島神社が祀られる懐古園となったが、現存する建物のひとつに「三の門」があります。その三の門に行く前に市街地にある「大手門」を見に行きます。小諸城の表玄関にあたり慶長7年(1612)に仙石秀久により築かれました。小諸城としてはこちらが正門で本丸から数えて4番目の門であることから「四の門」とも呼ばれています。

三の門は国の重要文化財で、自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣が、そびえ立つ寄棟造り瓦葺きの門にさらなる迫力を与える。威風堂々としながらも、どこか哀愁漂う雰囲気も醸す。その上の塀には、弓矢や鉄砲を撃つための矢狭間・鉄砲狭間が設けられ、戦国時代を生きた門の特徴を残す。三の門に掲げられた「懐古園」の文字は、徳川16代家達によるものである。

小諸城址の背後は断崖絶壁で、谷の底部には千曲川の流れが見える。藤村の「千曲川旅情の歌」で「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・・」と詠まれ全国的に有名になったのです。

また名曲「上を向いて歩こう」という歌の歌詞は、永六輔さんが戦時中に小諸に疎開に来て、疎開先でいじめられて、懐古園を一人 歩いていたときのおもいを詩にしたもの。
上を向いて 歩こう ♪
涙が こぼれないように
思い出す春の日  一人ぽっちの夜

武田の再起をかけ、夢がついえた甲州流築城術の集大成。甲州韮崎「新府城」

天正9年(1581)武田勝頼によって、塩川と釜無川に挟まれ、二つの川の浸食によって削り出された七里岩という台地上の南端、標高524mに築かれたのが韮崎の「新府城」です。武田家の館「躑躅ヶ崎館」と詰めの城「要害山城」では防ぎきれないと甲府の西に位置し、交通の要衡である韮崎に未完成にもかかわらず移転されたのです。しかしながら翌年3月3日織田信長に攻められわずか68日で勝頼自ら火を放ったとされる悲運の城「新府城跡」なのです。2017年「続・日本100名城」に選定されました。

長く傾斜のきつい249段の石段を上ると、本丸付近にある新府藤武神社の周りには見事なソメイヨシノの桜が30本近く城跡を彩り、満開の桜が広がります。

うまく時期が合うと桜と新府桃源郷と呼び声高き桃の花の両方が楽しめます。因みに新府藤武神社は藤井地区と武田地区を見下ろす高台にあるのでこのように呼ばれるようになったとのことです。

ミシュラン観光版で三ツ星を獲得!戦国と泰平の二つの顔を持つ城。信州「松本城」

戦国時代末期、文禄2年(1593)に造られた「松本城」は、往時の姿をそのまま今に伝える五重六階の天守閣を持つ城としては日本最古の城であり約420年の歴史を刻んでいます。平地に建てられた珍しい平城は、石川数正・康長父子によって築かれました。黒で統一された秀吉の大阪城にならい天守を黒にしたともいわれていて、別名「からす城」とも呼ばれています。外壁の半分以上が黒漆を塗った挽き板に覆われ、朝夕、太陽が斜めから射す時には反射して輝きます。

建物は五つの棟からなり、正面にそびえる大天守、その北側に設けられた乾小天守、ふたつの天守をつなぐ渡櫓のまとまりを連結式天守といい、戦国時代の天守らしく鉄砲戦を想定して造られています。白漆喰と漆黒の下見板の外壁は人を寄せ付けない威厳を漂わせています。

一方泰平の時代になって造られた辰巳附櫓と月見櫓は優美な姿が特徴で、櫓の朱塗りの廻縁がひと際異彩を放っています。時代や様相の異なる天守、櫓、これらが一体となって独特の美しさを醸し出している城は松本城だけなのです。

威風堂々とした姿が美しい松本城の天守がお堀に映る「逆さ松本城」は風のない日だけ見ることができる幻想的な光景。時間帯によって様々な表情を見せてくれます。

『風林火山』信濃攻略諏訪攻めの舞台!信州諏訪「高島城」

高島城は諏訪湖のほとりにある城。諏訪領主の諏訪頼忠が武蔵国へ移ったあと、豊臣秀吉軍の武将・日根野織部正高吉が天正18年(1590)転封、慶長3年(1598)に築城、当時は諏訪湖の島を利用して築城された連郭式の水城で、諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐり濠の役割をつとめ、湖面に城際が接し、湖上に浮いていたように見えたため「諏訪の浮城」とも呼ばれた。

江戸時代、中山道、甲州街道の重要な拠点として慶長6年(1601)から初代藩主諏訪頼水から10代忠札に至る270年間、諏訪氏が諏訪一帯を支配し居城としていた。昭和45(1970)年に3層天守閣が復元され資料館的な機能を持たされている。天守閣が延べ381平方メートルと比較的小さいことから同じ長野県内のお城と比べると知名度は低いものの天守閣からは諏訪平が一望できる。

 

十万石大名として真田の家名を残す小さな城下町信州「松代城」

永禄三年(1560)甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信に備えて謀将山本勘助に命じて縄張りさせた平城で当時は「海津城」と呼ばれていました。 千曲川のほとりという自然の地形を巧みに取り入れ、天下の名城と言われており、元和8年(1622)以降、江戸時代には代々真田十万石松代領主の居城となり松代城と改称。明治4年のは廃藩により取り壊されていたが、昭和56年に国の史跡に指定され、平成16年に土塁・堀などの整備・復元されたのです。

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太鼓門は本丸南側の大手(正面)に位置する門で本丸に存在した3ヵ所の櫓門の中で最大規模の門です。太鼓門の前には内堀にかかる太鼓門前橋があります。高さは11.8mのこの太鼓門(櫓門)と「橋詰門」と呼ばれる高麗門でいわゆる枡形門を構成しています。桜の名所でもあり、4月中旬ごろ見頃を向かえます。

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内堀より中は総石垣で囲われ千曲川の氾濫に備えられていたと考えまれます。本丸北側の搦手に位置する門が北不明門です。18世紀前半までは千曲川の河川敷に位置していたことから「水ノ手御門」とも呼ばれていました。

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石垣と天守のない全てが土塁で築かれた天下普請の平城。越後上越「高田城」

新潟県上越市、高田平野の中程にある小高い菩提ヶ原に、徳川家康の六男・松平忠輝の居城として、慶長19年(1614)徳川家康の命によって天下普請と呼ばれる徳川家の国家事業としてわずか4ヶ月間で建てられたのが「高田城」です。築城期間があまりにも短かったことから天守閣と石垣が造られなかった珍しい平城で、近隣の前田家ににらみを利かせ、北陸と関東を結ぶ交通の要衡に徳川一門である越後最大の雄藩にふさわしい三重櫓がシンボルです。築城の総監督・忠輝の義父、伊達正宗の下、奥羽、甲信越の外様大名13氏に命じて造らせました。

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城は周囲を流れる4つの河川を利用して蛇行部を外堀にするなど四方に荘大な水堀を巡らし、防備を強化していて、低湿地に築かれ、攻めづらくしています。低湿地の軟弱な地盤のために石垣が合いませんでしたが、土塁の迫力はこの城の一番の魅力です。

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春は約4000本の桜が咲く、 日本三大夜桜で有名であり、夏は外堀約19haを埋め尽くす東洋一の規模と美しさを誇る蓮の名所となる。秋の紅葉も美しい高田城です。