穴太衆の手による荘厳な野面積みの石垣が残る。三重「松阪城」

伊勢神宮に至る旧参宮街道(伊勢街道)には古い街並みが残り、そして市内に残る史跡は一風変わったものばかりである。その代表格が「松坂城址」とその下に広がる「御城番屋敷」です。

「松坂城」は天正16年(1588)、後に会津90万石の大大名となる蒲生氏郷によって築かれた、周囲に堀と土居を巡らした壮大な平山城で、連結式3層5階の天守には金箔瓦が使用され、絢爛豪華な城だったと伝えられる。

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石垣は、信長が建てた安土城と同じ形式で、しかも同じ穴太衆に作らせたものといわれ、織田信長を尊敬していた氏郷が信長イズムを継承して造ったとも言われています。眼下に広がる城下町を見渡し、氏郷への思いを馳せましょう。威風堂々たる存在感を放つ石垣は実は20km四方の神社・寺の墓石を集めて作られたもので雨に濡れると文字が浮かびあがるという全国でも珍しいものだそうです。「檸檬」で有名な梶井基次郎の短編小説「城のある町にて」をきどって松阪の街並みを見下ろしてみるとまさしく「高いとこの眺めは、アアッ(と咳をして)また格別でごわすな」である。

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そして裏門跡と搦手門(竹御門)跡を結ぶ美しい石畳の道の両側には美しく刈り込まれた槇垣を巡らした二列十九軒の武家長屋が「御城番屋敷」であり、他の地域の武家屋敷とは異なり、見ごたえ十分である。

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松坂は元和5年(1619)に紀州藩に属し、松坂城の警備を任務とする紀州藩士とその家族の住居として「御城番屋敷」は文久3年に建てられ、現在 1戸分を一般公開している。よく手入れされた槇垣に囲まれ、二つの甍が石畳を挟んで建つ様はまるで江戸時代にタイムスリップしたみたいです。

 

木曽川の畔で美濃をにらむ国盗りの要となった名城。愛知「犬山城」

国宝4城の一つ「白帝城」とも呼ばれる「犬山城」は江戸時代の儒学者・荻生徂徠が、城の情景が李白の詩にある白帝城に似ていることを讃えて名付けたといわれる。望楼型三層四階の美しい天守が川のほとりに緑に包まれてそびえる姿は、確かに「三国志」の舞台となった古城を思わせなくもない。北を木曽川と断崖が守る後堅固(うしろけんご)の平山城で、こちら側は愛知(尾張)で対岸は岐阜(美濃)である。国境に位置する犬山は、戦国時代には争奪が繰り返された国盗りの要所であった。4万石に満たない犬山の領地だが、中山道と木曽川による交易、政治、経済の要衝にあり信長、秀吉、家康ら天下人がこの城を欲し奪い合ったという。 お城前の広場には犬山のユルキャラ「わん丸くん」が出迎えてくれていた。

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犬山城への登り口にあるのが「針綱神社」。濃尾の総鎮守とされ、尾治針名根連命を祀る尾張五社の一つで犬山祭はこの神社の祭礼である。表門に続く道は、曲がりくねっていて、敵が直進できないようになっている。しばらく、坂道を登っていくと入城窓口があり、入城料を払って表門をくぐると国宝犬山城が威厳をもって出迎えてくれるのである。

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石段を登ると白い土壁と黒瓦の対比が鮮やかなな安土桃山期の古い天守に到着である。今から470年程前天文6年(1537)織田信長の叔父である織田与次郎信康によって築かれた城で、徳川の世では尾張藩の付家老成瀬家が城主となり、平成十六年まで日本で唯一個人所有の城だったのである。日本最古の天守閣は、創建時からの1・2重は総塗籠の大壁造、後に増築された3重は真壁造の天守。外層3層、内部4階、地下2階の構造で最上階の望楼は展望台になっている。高さは19M。

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望楼の最上層へ。途端に明るく四方の視野が開ける。望楼は3間×4間のこじんまりとした空間である。外に巡らされた高欄は膝丈しかなく、一周しながら下を見るとちょっと怖い。現存天守では唯一、廻縁を一周でき、高欄の手摺りが継ぎ目のない一本の材で作られていることもこの天守の自慢だとか。

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最上階からは木曽川を望む絶景を見ることができ、眼下に木曽川や山並みの眺望が素晴らしい。すぐ北には雄大な木曽川が流れ、南には名古屋市内まで見渡せる濃尾平野と小牧山が、西を見ると伊吹山に岐阜城、遥か東から北東にかけては御嶽山までを望め天下を取った気分になるというものである。

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