石垣と天守のない全てが土塁で築かれた天下普請の平城。越後上越「高田城」

新潟県上越市、高田平野の中程にある小高い菩提ヶ原に、徳川家康の六男・松平忠輝の居城として、慶長19年(1614)徳川家康の命によって天下普請と呼ばれる徳川家の国家事業としてわずか4ヶ月間で建てられたのが「高田城」です。築城期間があまりにも短かったことから天守閣と石垣が造られなかった珍しい平城で、近隣の前田家ににらみを利かせ、北陸と関東を結ぶ交通の要衡に徳川一門である越後最大の雄藩にふさわしい三重櫓がシンボルです。築城の総監督・忠輝の義父、伊達正宗の下、奥羽、甲信越の外様大名13氏に命じて造らせました。

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城は周囲を流れる4つの河川を利用して蛇行部を外堀にするなど四方に荘大な水堀を巡らし、防備を強化していて、低湿地に築かれ、攻めづらくしています。低湿地の軟弱な地盤のために石垣が合いませんでしたが、土塁の迫力はこの城の一番の魅力です。

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春は約4000本の桜が咲く、 日本三大夜桜で有名であり、夏は外堀約19haを埋め尽くす東洋一の規模と美しさを誇る蓮の名所となる。秋の紅葉も美しい高田城です。

山頂に悠然と構える越前平定の要となった現存最古の天守。越前坂井「丸岡城」

穏やかな坂井の町を見下ろし、山頂に悠然と構える武骨な「丸岡城」。越前平定の要であった現存最古の天守は、かつて繰り返された戦の面影を今に伝える。織田信長家臣柴田勝家の甥の勝豊によって「まるこの丘」と呼ばれる山に築城されたのが丸岡城。標高17mの小高い山頂に建ち、「霞ヶ城」とも呼ばれる。一層に大きな入母屋風を有する平山城で、石段の登り口からそのまま天守に入るという構造もこの城特有のもの。高さ12,6m、2層3階の望楼型天守は、手斧の跡が各所に見られ、武骨な印象を抱かせる板張りの建物である。

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太平の世には程遠い時代の天守であったため、鉄砲狭間や石落としといった戦への備えが各所に施され、約60°の急角度で造られた階段は訪問客を圧倒する。ロープを伝って慎重に上り下りしなければならない。天守の足場を支える石垣は最も古い工法とされる野面積み。

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また屋根瓦は全国の天守の中でもここだけの石瓦葺き。足羽山の笏谷石による瓦屋根は、この城の価値を高める希有な要素です。 最上階には回廊があり、西は遠く東尋坊のある三国まで、南は福井市内が見渡せます。

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初代丸岡藩主本多成重(幼名仙千代)の父、徳川家康譜代の家臣で戦では傷を負っても鬼気迫る戦いぶりを見せ、「鬼作左」の異名をとった本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てた手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という手紙はつとに有名です。

清水湧く北陸の小京都・越前大野の天空の城。「越前大野城」

雲海に浮かぶ日本三大天空の城として一躍有名になった「越前大野城」は、織田信長の家臣・金森長近により天正4年(1576)頃から約4年をかけて築いた城です。(後は竹田城と備中松山城) 。「北陸の小京都」と呼ばれる越前大野は、碁盤目状の美しい城下町でいたるところに湧水のせせらぎが聞こえる名水の町でもあります。

小高い亀山の山頂を削って平らにし、本丸とし天守を構え、麓に二の丸、三の丸があり、内堀、外堀を巡らし城を守っています。天守閣は昭和43年(1968)に再建されたものですが石垣は当時のままで、自然石を積み上げた野面積みという工法で造られていて大変堅固にできており、貴重な史跡となっている。

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お城への登り口は3ヵ所あり、急で長い階段が続く西登り口からだと徒歩約10分ですが、景観もよく一番登りやすい南登り口からだと徒歩約20分、整備されたスロープが緩やかなカーブを描くように続きます。緑の木々に包まれた心地良い道で、石段を上って城門を潜ると、ぐっと本丸らしい雰囲気になります。途中には初代藩主「金森長近」像や幕末の大野藩主「土井利忠」像が立っていて、遠くに白山を眺めながらの登城は、昔にタイムスリップしたような感覚にさせてくれます。写真の右端の石垣の窪みは「武者登り」といい、石垣と一体になったような、高さのある石段が設けられています。

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