祝国宝!黒の下見板張りと実践本意の造りの堅城。出雲「松江城」

松江城は慶長16年(1611)、松江開府の祖・堀尾吉晴の手により5年の歳月をかけて完成。築城後は堀尾氏2代、京極氏1代、松平氏10代の居城となりました。四重五階、地下1階、入口に附櫓を設けた複合式望楼型の天守は、平成27年(2015)7月、それまで重要文化財でしたが、国宝に指定されました。これで姫路、松本、犬山、彦根城の天守に加え五つ目であり、全国に現存する12天守のなかで姫路城に次ぐ面積を誇ります。

城を囲む掘の一部は、築城当時の姿を今に残します。城と掘がそのまま現存する城下町は全国でも珍しく掘を小舟で巡る「堀川めぐり」が人気です。石垣の上にそびえるのは、平成13年に約125年ぶりに復元された南櫓と中櫓です。

大手前広場に立つ松江城と城下町の基礎を築いた堀尾吉晴像。羽柴秀吉に仕え、知勇兼備の才を認められ、関ヶ原の戦では東軍に属し出雲一国を拝領します。

場内に足を踏み入れると、最初に目に入るのが高さ13mの石垣と櫓です。かつて二の丸には6棟の櫓がたっていたといい、現在は復元された3棟の櫓が見れます。その迫力だけで十分に城の規模が伺えます。

本丸に到着すると一気に視界が開け、堂々たる黒塗りの天守が現れます。重厚感がありながら、千鳥が羽を広げたような入母屋破風の屋根が優美で、「千鳥城」という別名も納得です。最上層の屋根に取り付けられた、木造銅板貼りとしては国内最大級の高さ2m強の鯱も存在感を放っていますし、3階南北の張出部中央にある寺院様式の花頭窓は外観に風格を与えています。

入口には侵入しにくいように鉄延板貼りの大扉をもつ附櫓が取り付けられ、さらに中に入ると2段構えの升形の小広場が備えられています。外壁には雨覆板と呼ばれる防水用の壁・下見板張りが施されるなど機能性にすぐれてた実践本位の造りです。

入口を入った地階には生活物資を貯蔵するための倉庫や籠城に備えて水を確保するための深さ約24mの井戸が設けられています。また老朽化によって付け替えられた鯱が展示されています。天守屋根上の鯱は、雨をもたらす防火の守り神として設置されます。奥の柱に打ち付けられていた、慶長16年(1611)の天守完成を示す祈祷札2枚が国宝に指定される証明になりました。

松江城の天守は2階ずつ通し柱で支え、均一荷重をかける「互入式通し柱」という工法を使っています。また一般的には継ぎ目のない巨木が建材として好まれますが、松江では、かすがい等を使って補強した「包板」と呼ばれる弾力性の高い寄せ木が柱に使用されています。また天守の内部の各階には石落としや鉄砲狭間など敵を攻撃するための仕掛けが随所にあります。

現存天守特有の急な木造階段を上り、最上階に到着すると、松江の城下町や望楼の南からは宍道湖が見え、一城の主になったような気分が味わえます。

四百有余年、六文銭に込めた真田の熱き魂が残る!信州上田「上田城」

上田城は天正11年(1583)、真田昌幸によって、徳川家康の支配のもと、上杉謙信への備えてとして、南に千曲川が流れ、緩やかで深みのある天然の堀となる「尼ヶ淵」に築城された上田盆地の中央に位置する平城です。そのため「尼ヶ淵城」とも呼ばれていました。第一次、二次上田合戦で徳川の大軍を撃退した実践経験のある城は全国にも他に例はありません。

上田城の堀は素掘りで掘りあげた土をその内側へ堤状に積み上げて土塁としています。

関ヶ原の合戦後破却され、その後小諸から入封した仙石忠政によって城は再興され、近世後半には松平氏の居城となりました。

昭和24年に南櫓と北櫓を移築復元し、平成6年に城門が復元され、かつての東虎口櫓門の姿が甦りました。虎口とは、城の出入口のこと。

その門の石垣の中に「真田石」があります。真田信之が松代移封の際に父に形見として持ち去ろうとしたが、不動であったちされる伝説の直径3mの大石です。

城内には現在、真田氏ほか歴代の上田城主を祀る「真田神社」があり、「落ちない城」にあやかり受験生に人気です。

その裏手には「真田井戸」があります。本丸唯一の井戸で、直径m、深さは16.5mに達します。この井戸には抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館に通じていたという伝説があります。

尼ヶ淵の河岸段丘上に築かれた本丸隅櫓の外壁は下見板とし、その上から軒の部分までを塗籠としています。昔の尼ヶ淵はいまは駐車場と芝生公園です。

 

 

 

戦国の世を見つめた難攻不落の穴城。信州小諸「小諸城址(懐古園)」

小諸といえば“小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ”の小諸城址(懐古園)です。北に浅間山を控える城下町・小諸の地には浅間山の火山灰地が浸食された深い谷が幾筋も走り、小諸駅の南東に位置する小諸城は、城としてはめずらしく城下町よりも低い場所に立つ穴城です。背後の谷筋を空堀に見立てて城後方の守りの要とし、仙石秀久、2代忠政の代に完成をみた後ろ堅固の城なのです。

城内は枡形を多用し、要所要所には橋や櫓、門を構えるなど、敵の侵入に備えた造りでした。ほとんどの建物は廃藩の際に壊され、鹿島神社が祀られる懐古園となったが、現存する建物のひとつに「三の門」があります。その三の門に行く前に市街地にある「大手門」を見に行きます。小諸城の表玄関にあたり慶長7年(1612)に仙石秀久により築かれました。小諸城としてはこちらが正門で本丸から数えて4番目の門であることから「四の門」とも呼ばれています。

三の門は国の重要文化財で、自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣が、そびえ立つ寄棟造り瓦葺きの門にさらなる迫力を与える。威風堂々としながらも、どこか哀愁漂う雰囲気も醸す。その上の塀には、弓矢や鉄砲を撃つための矢狭間・鉄砲狭間が設けられ、戦国時代を生きた門の特徴を残す。三の門に掲げられた「懐古園」の文字は、徳川16代家達によるものである。

小諸城址の背後は断崖絶壁で、谷の底部には千曲川の流れが見える。藤村の「千曲川旅情の歌」で「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・・」と詠まれ全国的に有名になったのです。

また名曲「上を向いて歩こう」という歌の歌詞は、永六輔さんが戦時中に小諸に疎開に来て、疎開先でいじめられて、懐古園を一人 歩いていたときのおもいを詩にしたもの。
上を向いて 歩こう ♪
涙が こぼれないように
思い出す春の日  一人ぽっちの夜

武田の再起をかけ、夢がついえた甲州流築城術の集大成。甲州韮崎「新府城」

天正9年(1581)武田勝頼によって、塩川と釜無川に挟まれ、二つの川の浸食によって削り出された七里岩という台地上の南端、標高524mに築かれたのが韮崎の「新府城」です。武田家の館「躑躅ヶ崎館」と詰めの城「要害山城」では防ぎきれないと甲府の西に位置し、交通の要衡である韮崎に未完成にもかかわらず移転されたのです。しかしながら翌年3月3日織田信長に攻められわずか68日で勝頼自ら火を放ったとされる悲運の城「新府城跡」なのです。2017年「続・日本100名城」に選定されました。

長く傾斜のきつい249段の石段を上ると、本丸付近にある新府藤武神社の周りには見事なソメイヨシノの桜が30本近く城跡を彩り、満開の桜が広がります。

うまく時期が合うと桜と新府桃源郷と呼び声高き桃の花の両方が楽しめます。因みに新府藤武神社は藤井地区と武田地区を見下ろす高台にあるのでこのように呼ばれるようになったとのことです。

加賀前田家百万石のシンボル。日本100名城「金沢城」

兼六園から石川橋を渡って金沢城石川門を目の前にします。金沢城の搦手門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と二層二階建ての石川櫓で構成された枡形門で金沢城三御門のひとつです。

鉛瓦の屋根が白く輝く、天明8年(1788)に再建された旧金沢城の遺構です。枡形内の石垣が右と左で技法が異なり、右側が「切石積み」、左側が「粗加工石積み」です。

正面には平成13年7月に復元された二棟の三層三階の物見櫓「菱櫓」と「橋爪門続櫓を二層二階の倉庫「五十間長屋」でつないだ建築物があり、橋爪橋を渡った先に二の丸への正門として最も格式の高い門「橋爪門」があります。高麗門の一の門、石垣と二重塀で囲まれた枡形、櫓門の二の門からなり金沢城三御門のひとつで、城内最大の枡形門です。

甲州流軍学者の知恵を絞って造り上げた忠臣蔵のふるさと。播州「赤穂城」

忠臣蔵で有名な赤穂浪士たちの本拠地として名高い「赤穂城」は、大阪の陣の後、名実ともに徳川幕府の天下が決定した後に築かれた城です。正保2年に浅野長直が常陸国笠間から石高53500石で入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶案元年(1648)から13年の歳月をかけて寛文元年(1661)に完成した城郭の綱張りは、近藤正純、山鹿素行の指導のもと甲州流軍学によるもので、本丸と二の丸は輪郭式、二の丸と三の丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城で、赤穂のシンボルであり、「日本100名城」に選ばれているのもうなずける。天守台はあるが肝心の建物「天守」は一度も築かれませんでした。

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東に千種川、南は瀬戸内海に面しており海を強く意識した城で、清水門の南にある船入は船が出入りできるようになっていたのである。時代的にも戦を意識して築城されたものでないのでのどかな印象が漂うのも特徴である。城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2847m、面積は63711㎡に及んでいる。

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赤穂城の表玄関が大手門。門、隅櫓、土塀は昭和30年(1955)に復元したものであるが赤穂のシンボルとして旅の記念写真のベストスポットとして愛されているようである。

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ミシュラン観光版で三ツ星を獲得!戦国と泰平の二つの顔を持つ城。信州「松本城」

戦国時代末期、文禄2年(1593)に造られた「松本城」は、往時の姿をそのまま今に伝える五重六階の天守閣を持つ城としては日本最古の城であり約420年の歴史を刻んでいます。平地に建てられた珍しい平城は、石川数正・康長父子によって築かれました。黒で統一された秀吉の大阪城にならい天守を黒にしたともいわれていて、別名「からす城」とも呼ばれています。外壁の半分以上が黒漆を塗った挽き板に覆われ、朝夕、太陽が斜めから射す時には反射して輝きます。

建物は五つの棟からなり、正面にそびえる大天守、その北側に設けられた乾小天守、ふたつの天守をつなぐ渡櫓のまとまりを連結式天守といい、戦国時代の天守らしく鉄砲戦を想定して造られています。白漆喰と漆黒の下見板の外壁は人を寄せ付けない威厳を漂わせています。

一方泰平の時代になって造られた辰巳附櫓と月見櫓は優美な姿が特徴で、櫓の朱塗りの廻縁がひと際異彩を放っています。時代や様相の異なる天守、櫓、これらが一体となって独特の美しさを醸し出している城は松本城だけなのです。

威風堂々とした姿が美しい松本城の天守がお堀に映る「逆さ松本城」は風のない日だけ見ることができる幻想的な光景。時間帯によって様々な表情を見せてくれます。

穴太衆の手による荘厳な野面積みの石垣が残る。三重「松阪城」

伊勢神宮に至る旧参宮街道(伊勢街道)には古い街並みが残り、そして市内に残る史跡は一風変わったものばかりである。その代表格が「松坂城址」とその下に広がる「御城番屋敷」です。

「松坂城」は天正16年(1588)、後に会津90万石の大大名となる蒲生氏郷によって築かれた、周囲に堀と土居を巡らした壮大な平山城で、連結式3層5階の天守には金箔瓦が使用され、絢爛豪華な城だったと伝えられる。

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石垣は、信長が建てた安土城と同じ形式で、しかも同じ穴太衆に作らせたものといわれ、織田信長を尊敬していた氏郷が信長イズムを継承して造ったとも言われています。眼下に広がる城下町を見渡し、氏郷への思いを馳せましょう。威風堂々たる存在感を放つ石垣は実は20km四方の神社・寺の墓石を集めて作られたもので雨に濡れると文字が浮かびあがるという全国でも珍しいものだそうです。「檸檬」で有名な梶井基次郎の短編小説「城のある町にて」をきどって松阪の街並みを見下ろしてみるとまさしく「高いとこの眺めは、アアッ(と咳をして)また格別でごわすな」である。

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そして裏門跡と搦手門(竹御門)跡を結ぶ美しい石畳の道の両側には美しく刈り込まれた槇垣を巡らした二列十九軒の武家長屋が「御城番屋敷」であり、他の地域の武家屋敷とは異なり、見ごたえ十分である。

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松坂は元和5年(1619)に紀州藩に属し、松坂城の警備を任務とする紀州藩士とその家族の住居として「御城番屋敷」は文久3年に建てられ、現在 1戸分を一般公開している。よく手入れされた槇垣に囲まれ、二つの甍が石畳を挟んで建つ様はまるで江戸時代にタイムスリップしたみたいです。

 

築城の名手・藤堂高虎のもと天下普請で築かれた丹波「篠山城」

慶長13年(1608)徳川家康は豊臣氏の居城である大阪城と山陰、山陽路の連絡を断ち、西国大名に対する抑えとするため、常陸国の笠間城から実子松平康重を八上城に移し、ただちに新城の築城を命じて建てられたのが今もなお町のシンボルである続ける「丹波篠山城」です。

慶長14年(1609)、西国15カ国・20の諸大名に助役を命じ、一日約8万人を動員してわずか6ヶ月で「笹山」という丘陵に城を完成させ、それを中心に拡がった城下町が篠山である。古来京都への交通の要として栄えてきた歴史があり、町並みや祭りなどに京文化の影響を色濃く残しており、そんな城下町篠山の街並みは「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれています。

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日本百名城の「篠山城跡」は、別名桐ヶ城と呼ぶこの城は築城家の第一人者、藤堂高虎の縄張りで行われた平山城で方形約400Mの小規模なものであるものの、二の丸には大小書院や御殿、築山を持つ庭園を配し、要所には2重の枡形や2重、3重の櫓を配した荘厳かつ堅固なもので、回字型の構造から輪郭式縄張という城郭遺構はほぼ昔のままの姿をとどまている。

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北東の三の丸入口にあたる東門から内堀、内堀に面した二重の枡形を抜けるとすぐに篠山城のハイライトである、2000年に復元された京都二条城の御殿に匹敵する大書院に至る。

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南面中央の少し低い位置にある埋門で、字のごとく石垣に埋まるように造られていて、扉は小さな木戸になっている。非常時には土や石で埋めて遮断することができる特殊な造りになっている。

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またこの門を出た南角には普請総奉行の池田三左衛門輝政の三左衛門の刻印が刻まれた石垣も発見できるのである。

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諏訪湖のほとり桜吹雪を浴びる天守閣!信州諏訪「高島城」

甲州道上諏訪宿は江戸時代には高島藩諏訪氏の城下町として、また諏訪大社上社の門前町・温泉町としてにぎわいをみせましたが、しの中心にあるのが諏訪湖のほとりにある高島城です。

諏訪領主の諏訪頼忠が武蔵国へ移ったあと、豊臣秀吉軍の武将で安土城や大阪城の築城に参画した日根野織部正高吉が天正18年(1590)転封、文禄元年(1592)から7年を費やし、関ヶ原の戦いの2年前、慶長3年(1598)に諏訪湖東岸の湿地帯に築城した平城。当時は諏訪湖の島を利用して築城された連郭式の水城で、諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐり天然の濠の役割をつとめ、湖面に城際が接し諏訪湖の波が城壁に迫る様子から、湖上に浮いていたように見えたため「諏訪の浮城」とも呼ばれていました。

諏訪湖の水鏡に映し出されていたその雄姿は、咲き誇るソメイヨシノの海に囲まれ、まるで天守閣が桜色の雲海に浮かんでいるようにも見えていたことだろう。

江戸時代、中山道、甲州街道の重要な拠点として慶長6年(1601)から初代藩主諏訪頼水から10代忠札に至る270年間、諏訪氏が諏訪一帯を支配し居城としていた。往時の栄華を垣間見せる手入れされた日本庭園に咲くソメイヨシノやシダレザクラ、ヤエザクラなどの桜木や石垣を彩るシダレザクラ、お堀を覆うように咲くソメイヨシノなど約90本の桜が美しい。広々とした城内には池や芝生もあり、休日には桜を愛する人々でひときわ賑わいを見せています。

天守閣は明治8年(1875)に撤去され本丸跡は高島公園となりましたが、昭和45(1970)年に築城当初の3層も天守閣が復元され資料館的な機能を持たされています。天守閣が延べ381平方メートルと比較的小さいことから同じ長野県内のお城と比べると知名度は低いものの天守閣からは諏訪平が一望できる。

城門や石垣に往時の面影がしのばれます。

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